小林千絵語る「河合奈保子との上京」と「履歴書をゴミ箱に」暗黒時代《あの80年代アイドルの今》

「デビュー当時はアイドル番組ばかり出ていたので、明菜さんは1年先輩ということもあり何度もいっしょでした。『ヤンヤン歌うスタジオ』とか、早見優さんとか堀ちえみさんとかは、わりとスタジオの前室でしゃべっていたのですが、明菜さんはギリギリまで楽屋にいらっしゃって、いい意味で群れない自分を持った方でした。

聖子さんとは一回だけトイレでいっしょになったことがありました。思い切って『1983年3月21日にデビューした小林千絵です!よろしくお願いします!』と挨拶したら、聖子さんは『あ~そうなの。頑張ってね。かわいい衣装ね~』と声をかけてもらった思い出があります」

小林千絵(60)は83年にポニーキャニオンから『いつも片思い』でデビューした。だが、いつしか“不作の83年組”といわれるように、小林もデビュー前から苦難の日々が続いていた。

「河合奈保子ちゃんとは同じ年なんですよ。大阪での地区予選大会で出会ったのが最初でした。書類審査を通った約100人が集まった会場で、そのときに会ったのが初めてです。

私はお友達といっしょに行ったんですけど、友達に『絶対にあの子(河合)になるで!』と断言していました。

奈保子ちゃんは洗練されていない宝石の原石みたいな感じだったんです。私は高校1年生だったのでおしゃれに興味をもつ年ごろで、頑張っておしゃれするじゃないですか。でも奈保子ちゃんは白に汽車のアップリケがついたようなトレーナーを着ていて、素朴な感じだったんです。それでいて透き通るような透明感があって本人から出てるオーラが凄くて。結局、奈保子ちゃんと私の2人が大阪代表として選ばれ東京の本選に進んだんです。

東京の決選大会に行くときに、私は兄と、奈保子ちゃんはお父さんといっしょに4人で新幹線に乗って東京に行ったんです。本選は中野サンプラザホールでした。そこに一緒に行って、すごく仲良くなって、トイレ行くのも手をつないでという感じで(笑)。

本戦の最後に『河合奈保子!』と選ばれたとき、集まっていたマスコミのカメラマンが一斉に奈保子ちゃんのところに集まってフラッシュたいて、さっきまで手をつないでいた奈保子ちゃんが遠い存在になってしまったという経験があって……。私はしょんぼりと大阪に帰って普通の高校生の生活に戻ったんです」

それでも芸能界を諦めることはなかった。

「奈保子ちゃんから“デビューが決まりました”という手紙をもらって、それを読んだときに『私も追いかけるからね』と返事を出したんです。

高校3年生になったときに担任の先生と進路相談をして、“1年間はオーデションを受けまくって、それでダメだったら別の道を考えよう”と決意。それまではなかなか受からなかったんですが、“最後の1年間”と思ってからは次々に受かるようになったんです。ヤマハのザ・デビューというコンテストもグランプリに選ばれ、うちの母親が『ヤマハさんだったら知っているし安心やわ』ということでデビューすることになったんです」

■大磯ロングビーチの部屋で「私たち本当に売れなかったね。悔しかったね」と握手

しかし「花の82年組」と対比され、83年は「アイドル不作の年」と言われるように。

「同じ世界にいても82年組の皆さんとは全く扱い方が違っていましたね。悔しかったこととしては、賞レースのときにプロフィールを持ってテレビ局に挨拶回りをするのですが、忘れもしないのがある局の音楽番組のプロデュサーが目の前でプロフィールをゴミ箱に捨てたんです。売れないと人間以下なんだなと涙が出ました。ただ、これには理由があって、これまでヤマハのニューミュージック系の方は“テレビの賞レースには出ません”としていたのに、ヤマハのアイドルは私が初めてだったので、“これまで断っていのに、なにをいまさら賞をくださいなんだ”という意味を込めていたらしいです。本当につらかったけど、それがあったので頑張ってこれたと思います。

水泳大会でも私たちが歌うときはワイプ(下の方の小さい画面)でしたし。水泳が得意だったのでクロールの自由形に手をあげて出て息継ぎもせず25メートル泳ぎ切ってバッと上に上がったら“カメラが待ってる”と思ったのに、周囲からは“オマエ、なに勝ってんねん”という感じでした(笑)。カメラは私ではなく後ろで泳いでいる堀ちえみさんを追ってたんですね。いつもそんな感じでした。

ただ、何回も水泳大会には出ていたんですが一回だけグットファイト賞で名前を呼ばれたことがありました。頑張っていたらちゃんと見ていてくれる人がいるんだと。その時の嬉しさは今でも忘れません」

同期の松本明子(58)とはいまや盟友だ。

「明子ちゃんとはデビューの年は一緒でお仕事することが多かったし、プライベートでも会っていました。でも84年になると新人という枠がはずれてしまって、みんなバラバラになったんです。その最後の日、大磯ロングビーチで水泳大会があって、みんな前の日からホテルに泊まるのですが、そのとき私の部屋に83年組が集結。今でも忘れないのは明子ちゃんが『私たち、本当に売れなかったね。悔しかったね。でも私たち生き残ろうね!』と握手したんです。

そのあとはずっと会ってなかったんですが、今から10年ほど前に大沢逸美ちゃんがある番組で『誰か会いたい人はいますか?』という企画で『同期に会いたい』と言ってくれて、そこで呼ばれたのが私と松本明子ちゃんと桑田靖子ちゃん。逸美ちゃんをサプライズで驚かす企画で喫茶店でドッキリみたいなことをやりました。それがきっかけで“今度、ご飯食べようね”と電話番号を交換。その後、誰かの誕生日だとかで定期的に集まるようになったんです。5年前には『お神セブン、不作のアイドル35周年記念』で銀座博品館でライブもやったんです。そのあたりから朝から晩までみんなでLineやってますね。家族以上に(笑)。きっと売れなかったから絆が深くなったんだろうなと思います。大磯ロングビーチでの固い握手がみんな心のどこかに残っていたんです」

『お神セブン』は基本的には自主イベント。物販のクリアファイルなどは自分たちで注文して袋詰めしている。いまや50歳代のファンの方々が地方から集まってくれるように。

「82年組は“手が届かないアイドル”で、83年組は“手が届くアイドル”みたいな感じですね(笑)。観客は、当時のファンというよりも、自分の青春時代を思い出す、または同年代を応援するという方々が多いですね」

昨年11月にデビュー40周年と還暦を記念して大阪と東京でライブをおこなった。

「結婚してお仕事をお休みして子育てを優先していた時期はありますが、引退を考えたことはありません。記念ライブにあわせて『100センチの幸せ』という新曲も発表しました。

これまではがむしゃらに成功を追い求めてきましたが、この年になって本当の意味での成功ってなんだろうと。人生って思い通りにならないことが多いから、これからは成功って意味ではなくて、私が生まれてきた意味を求めようと。自分はトークが好きだし、歌も好きだし。それで1人でも笑顔にできるならどんなところにでも行きたいと思っています。それが歌うことなのかしゃべることなのか。文章を書くことなのか、なんでもやっていきたいしライブを作る側もやりたいですね」

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